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「小さな政府の経済倫理」

『経済セミナー』2006.1. No.612, 36-39.

特集 「小さな政府」は可能なのか?

橋本努(北海道大学大学院経済学研究科・助教授)

 

 

1.リバタリアンな福祉国家?

 1974年にハイエクがノーベル経済学賞を受賞したとき、いったい福祉国家として成功したスウェーデンがなぜその批判者たるハイエクに賞を与えるのか、という疑問が持ち上がった。ハイエクにしても、はたしてスウェーデンのような福祉国家から賛辞を送られる理由はなかったかもしれない。受賞に際してハイエクは、ありうる批判に答えるべく、当時のスウェーデン経済はイギリス経済よりも自由である、というようなコメントを残している。「国営企業の数」という点では、スウェーデンはイギリスよりも少ないというのである。一般にスウェーデンでは、政府の役割は所得の再配分や失業保険といった「市場補完的」な業務に制約されており、これに対してイギリスでは、政府が市場に「代替」する役割を担うために、国営企業が積極的に営まれてきた。政府の役割に対する両国の認識の違いは、70年代における「豊かなスウェーデン」と「停滞するイギリス」の違いとなって現れていた、とみることができよう。

 その自由な国、スウェーデンは、近年になってますますその自由度を高めている。過去11年間にわたって毎年刊行されている『経済的自由の指標(Index of Economic Freedom)』(ヘリテッジ財団とウォールストリート・ジャーナル誌による調査)によると、1995年におけるスウェーデン経済の自由度は、5段階で2.63、これに対して2005年の自由度は1.89であり、現在、スウェーデンはアメリカ合衆国に次ぐ自由な国として、約160か国中、第14位に順位づけられる。ちなみに2005年のイギリスの経済的自由度は、1.75(第7位)であり、アメリカやスウェーデンよりも高い。国営企業の問題を除けば、イギリスは現在、大国としては最も自由な国であり、その傾向はブレア政権になってからもほとんど変わらない。(2005年の経済的自由度の第1位から第6位は、香港、シンガポール、ルクセンブルク、エストニア、アイルランド、ニュージーランドである。)

経済的自由度が第7位のイギリス、第14位のスウェーデンに比べて、日本はといえば、先進国の中ではフランスの第44位に次いで、第39位とかなり低い。スウェーデンと日本を比較した場合、貿易政策、財政赤字、金融政策、賃金・物価水準、各種の規制という点では、両国の自由度はほとんど変わらない。しかし外国資本の導入や銀行業務の規制という点では、日本はスウェーデンに比して大幅に保護的であることが分かる。これらの部門における日本とスウェーデンの自由度は、それぞれ3.01.04.01.0である。とくに日本では、郵便局を通じた公的金融業の存在が、経済的自由度を著しく下げている。これに対してスウェーデンでは、1999年には郵便局が金融事業から撤退、2001年以降は、特定の金融機関と提携して金融サービスを提供、さらに郵便局のネットワークをすべての金融機関に開放する方針となっている。

 もう一つ、驚くべきことに、スウェーデンにかぎらずフィンランドやノルウェーといった北欧諸国はすべて、現在では日本よりも経済的自由度が高い。(フィンランドは15位、ノルウェーは29位。)私たちが「社会の中に埋めこまれた市場」というK・ポラニー的理想の下に評価する北欧の福祉国家は、実はすでに、日本よりも「リバタリアン(自由至上主義的)」な社会になっているのである。日本では現在、小泉政権の改革の目玉として郵便局の民営化が推し進められているが、これをもって「リバタリアンな政策」と呼ぶならば、現代の北欧諸国はいわば、「リバタリアンな福祉国家」であるということになろう。

 もっとも、リバタリアンな福祉国家とは、思想的には語義矛盾を孕んだ理解である。リバタリアニズムは「小さな政府」を目指し、福祉国家は「中規模の政府」を目指すからである。郵便局の民営化が「小さな国家」を目指すものであるとしても、日本が現在の福祉水準を維持するならば、高齢化とともに福祉の分配が増大するために、おのずと「大きな政府」になる。それゆえ日本で現在進行中の改革は、全体としてみれば、政府の役割を大幅に認める「新自由主義」の理念に導かれていると言うべきであろう。新自由主義とは、一方では国営企業の民営化を推進しつつも、他方では古典的自由主義に比して国民のニーズを広く解釈し、福祉や警備や治水といった事業には国家の役割を認める立場である。北欧諸国にせよ日本にせよ、向かっている社会の理想は、金融業の自由化と両立する新自由主義的な福祉国家の理念に他ならない。

 

2.どのリバタリアニズムか?

 しかし小泉首相が掲げるように、現在進行中の郵政改革が「改革全体の出発点」にすぎないとすれば、私たちは、新自由主義的な政策理念を超えて、思想的には「どこまで自由が可能なのか」と問わねばならないだろう。自由の問題を徹底して考えてゆくならば、リバタリアニズムの思想を真剣に検討する必要に迫られる。

昨年(2005)3月に出版された森村進編『リバタリアニズム読本』(勁草書房)は、半年後の10月には三刷を数え、また森村氏の入門書『自由はどこまで可能か』(講談社新書)は、昨年秋の読書フェアの1冊に選ばれた。さらに日本法哲学会の昨年の年報は「リバタリアニズムと法理論」を特集しており、ここにきて日本では、リバタリアニズム思想に対する関心がにわかに高まっている。リバタリアニズムの思想にはさまざまなバージョンがあるが、代表的なものとしては、ロシア系アメリカ政治学者のR・ノージックの最小国家論や、オーストリア学派の第三世代L・フォン・ミーゼスの「プラクシオロジー(人間行為学)」を挙げることができよう。ノージックは、主著『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)において、ロック流の自然権理論と権能論から、最小国家のみを政治的に正統化する立論を展開した。またミーゼスは主著『ヒューマン・アクション』(1949)において、「人間は行為する」というアプリオリな命題の公理的な展開から、政府による温情的な介入を一切受け入れない体制こそ理想的であると論じている。ノージックとミーゼスはいずれも、政治的には不遇のアメリカ移民であり、両者が築いたリバタリアニズムの思想は、当人たちの政治的信条を賭けた結晶的作品である。それゆえ彼らの思想を簡単にあしらうことはできないが、両者の立論に対しては、「政治」とは区別される「倫理的次元」の強調、あるいは、人間行為とは区別される「行動や慣習の次元」の強調によって、その根源的要求を相対化することはできよう。実際、新自由主義者のハイエクを含めて、最小国家よりも大きな国家を擁護する思想家たちは、これまで倫理的-行動論的な次元の知見に訴えて、リバタリアニズムの根源的な主張を牽制してきた。

 しかし、私たちが倫理や行動や慣習の次元を強調するとしても、なおリバタリアニズムの立場を擁護することは可能である。例えば、ミーゼスの弟子にあたるマレー・ロスバードは、著書『自由の倫理学』(1982)において、倫理的次元における自己所有権の絶対性を主張している。また日本を代表するリバタリアンの森村進氏は、主著『財産権の理論』(1995)において、行為論的な視座にとらわれずに、自己所有権の直観的-生理的正当化論という、きわめて独創的な理論を展開している。さらに、ミルトン・フリードマンの息子デイビッド・フリードマンは、主著『自由のためのメカニズム』(1973)の中で、リバタリアニズムの帰結主義的な正当化論をさまざまな政策提案とともに提示しており、それらの提案はいずれも、痛快な説得力をもっている。アメリカを代表する大衆文学の女流作家アイン・ランドは、大作『水源』(1943)や『肩をすくめたアトラス』(1957)において、逞しき個人主義の「生存美学」を掲げ、リバタリアンな生き方の倫理的なすばらしさを見事に描いている。こうしたリバタリアニズムの諸思想はいずれも、新自由主義思想をさらにラディカルに推進するための、魅力的な理念を示しているように思われる。

 

3.逞しき自由から公共倫理へ

リバタリアニズムの挑戦はそれゆえ、倫理的・行動論的次元においても真剣に受け止められなければならない。なかでも現代社会において重要な意義をもつと私が考えるのは、D・フリードマンの帰結主義と、A・ランドの生存美学である。

1990年代の前半にバブル経済が崩壊したとき、日本では生活者の思想を再評価する機運が高まった。すなわち、これからは自由主義や社会主義といったイデオロギーに頼るのではなく、また「親方日の丸」の権威に依存するのでもなく、一人一人の生活者の生きた思想こそ信じるに値する、という考え方がそれである。しかし生活者たちの諸思想は、これまで郵便局の民営化を問題視してこなかったし、また商人的生活者の都である大阪では、市役所の職員厚遇問題を長年に渡って放置してきた。去る九月の衆議院選挙においても、最大の焦点は「郵政民営化」であったとはいえ、民衆は「民営化の旨み」よりも、小泉首相の立ち振る舞いに「逞しき個人主義の美学」をみてとったのであろう。小泉首相のように組織を改革する意欲のある人に道を空ければ、やがて日本社会は健全で豊かな社会を取り戻す。人々はそのように期待して、自身の生活者的視点よりも、直接にはA・ランドの生存美学、間接的にはD・フリードマンの帰結主義に適ったリバタリアニズムの思想に共鳴したように思われる。

 小泉首相は、アイン・ランド的なリバタリアニズムの美学を備えている。これはリバタリアニズムにとって、大きな政治的幸運であると言えるかもしれない。しかしはたして当の改革が日本経済を活性化するかどうかは、いまのところ未知数である。リバタリアニズムの政策がその帰結として国富増大に資するためには、民衆倫理の再編が必要であろう。例えば、民営化された準公的な諸機関に対して、私たちはいかなる公共心をもって対応すべきなのか。あるいは、NPONGOに携わる人々はいかにしてすぐれた公共精神を発揮しうるのか。問われているのは、リバタリアニズム思想が民営化を成功に導くための、新たな民衆の倫理である。

そこで興味深いのは、一部のリバタリアニズムにおける次のような倫理学的前提である。すなわち、「人々は政府に頼らなくても、十分に利他的な精神を発揮して、世の中を善くするように行動するだろう」という楽観的期待がそれである。リベラリズムの立場に立つ人であれば、人々の行為を利他的なものにするために、政府の強力な介入を要求するであろう。これに対して一部のリバタリアニズムは、その反対が真であると考える。私の少ない経験からアメリカのリバタリアンたちを観察してみると、「政府に頼らずに利他的に振る舞う」という楽観的期待は、ある程度まで許されそうである。またそのかぎりにおいて、リバタリアニズムはローカルなコミュニタリアニズムと両立する。日本において同様の楽観をもつことはできないが、いずれにせよ現在、「小さな政府」を導くに当たって求められているのは、民営化と両立可能な公共性の倫理に他ならない。

そしてその思想的要請は、現在、「公共性の新たな構造転換」によってすぐれた動因を得ているように思われる。例えば、放送機関における「報道の中立性」や行政機関における「事務的な公平性」、あるいは銀行業における「信頼秩序の公共性」といった、「不偏・不党」ないし「安心」の社会運営という理想は、これまでその供給側に対して、さまざまな規制を課すとともに、比較的高い所得と地位を与えることでその要件を満たしてきた。しかし、インターネットによる報道メディアの多元化と低費用化、あるいは、NPO/NGOによる行政業務の代替と民活導入によって、いまや公共性の理念は、「規制と地位と所得によって確保された中立性と公平性の集権的供給」を理想とすることができなくなっている。公共性はいまや、市場社会の隅々に遍在し、アモルフな拡張期にある。小さな政府が善き社会を導くというリバタリアニズムの主張は、それゆえ、公共性の「遍在化」と「不偏・不党・安心の観念の意義低下」に応じて、別様の公共倫理を模索する必要に迫られよう。